「昭和苦難の時代を顧みる」

昭和32年卒 上田 武嗣

 

機友会の中でも私は後期高齢者の部類に属することでしょう。

昭和10年生まれを年表で見ると、翌年が有名な二二六事件、その翌年が日中戦争(支那事変)の始まりであり、我ながら永い歴史を感じます。今や80代になり終活の時期を迎え、終戦前後に受けた強烈な記憶を書き残すことにしました。

私は終戦の玉音放送を田舎の疎開先で聞きました。周りの人が泣き出すのを見て子供ながら大変なことになったと思いました。母親は私を抱きしめて言いました。アメリカ兵がやって来たら女子供は殺される。その時は体当たりして自決しよう、と悲壮な声で叫んだことを今もって覚えています。通っていた小学校も沈痛な雰囲気に包まれていました。あすからどのような授業を続けようか思案に暮れていました。

その中で担任の先生は立派な決断をされました。君達、日本は負けた。今迄とは違う。今日からは新しい時代の授業をおこなう。

これからは英語の学習が必要になると思う、と言うなり黒板にローマ字を書きだしました。国語しか習わなかった私達は突然の変化に途惑いました。今思うとあの場に及んで先を見越したすばらしい決断であったと敬意を表しています。

もう1人中学校で習った音楽の先生です。当時めずらしかったグランドピアノに向って、諸君ベートーベン作曲「月光のソナタを聴いてください」と言うなり全曲堂々の演奏をされました。終戦直後本格的な音楽に接することのない私達生徒にはすばらしい思い出になりました。

ここで終戦直後の街の様子を振り返ることにしましょう。市内全域に進駐軍の接収地がありました。

四条烏丸の一郭には総司令部があり病院や美術館、植物園など市の重要な施設は軒並に接収されていました。国道や荒れ果てた市道には大型の軍用トラックやジープがけたたましい音と排気ガスを放出して走りまわっていました。それと対照的にたまに出会う日本の車は木炭車が多く煙を出してトロトロと走っていました。これでは戦争に負けるのは当然、国力の差は歴然としていました。

赤ら顔の兵士は大柄でいかめしいが我々少年には意外にやさしく「ハロー」と気軽に声をかけてくれました。チューインガムをねだる我々はあわれな敗戦国の浮浪児のようでした。浮浪児と言えば公園や駅の片隅にたむろしていて我々がベンチに座って弁当を食べているとどこからともなくやって来て食べ物をねだります。大人の浮浪者も交っていて実にみすぼらしい光景です。

では現在は如何でしょうか。

日本人の生活は豊になり唯一人として見ず知らずの他人の食物までおねだりする人はいないと思います。敗戦のさなか働きたくとも仕事がない、物もない、金もない、夢も希望もない、みんなが貧困生活を強いられた極限の時代、恥や体裁をかまわずがむしゃらに生きのびた当時の民衆の底力を思う時、果して豊食の現代人は絶えられるのかを考えさせられます。戦中戦後の苦難の時代をのり越えて日本の繁栄を築きあげた人々に感謝の念を捧げたい。

 

機友会ニュースデジタル版第63回 上田 武嗣 氏(1957年卒) 「昭和苦難の時代を顧みる」