「立命館と私」

?金山 幸雄

機友会の皆様、初めまして。いままで、大した社会活動もしていないし、機友会にも積極的に貢献していない私ですが、何故か突然執筆依頼が来ました。理由としては、「誰でも気軽に参画できるのが機友会」ということと思います。

さて、自分史をまとめるつもりで紙面を借用させていただきます。

<志望大学に行けずに立命館>

愛知の田舎から、夢を抱いて東京の大学を目指したが、実力が伴わずに、地方入試で受験した立命館へと思ったが、入学手続きの締め切りが過ぎていたことに気が付き、慌てて、両親と京都の衣笠へ行き、事務室で恐る恐る聞いたところ「ああ、入学金が振り込まれていたのでしたら大丈夫です!」という返事であった。

今の長岡京市にあった学生寮に入ったが、通学の気力もなく、毎日コーラを飲みながら、麻雀、パチンコの生活であった。たまに大学へ向かったが、講義場所が分からずに、そのまま帰り、また麻雀、パチンコ・・。そんな時、何かの手違いで仕送りが途絶えた。「嗚呼、俺っていらん子なんやなあ」と勝手に思い、実家に連絡もせずに、飯が食えるということで、水商売のアルバイトを始めた。「いらっしゃいませ」が言えずに三日目、立命館の先輩であったマスターに怒られながら、ようやく「いっ、いらっしゃい」。「ここは寿司屋とちゃうぞ」と言われたが、一旦馴染むと、水商売にどっぷり漬かった。学生アルバイトがモテた時代、酒と女の誘惑の中、マスターに「酒と女と金に手を出したら、この業界では生きていけへんで」と言われて、おとなしくしていた。その後、何故か信頼され、レジとか売り上げを任されるようになった。ついでに女の子のスカウトもやった。そんな中、店で刃物沙汰があったが、「私は貝」という態度であったため、女の子に嫌われた。結局、3年間水商売でアルバイトをしたため、遊び資金は豊富であったことから、レポートや製図、テスト範囲などの大学の情報は、全てお金で買った。だから友達はいなかった。

<研究というものに興味を持ち始めた頃>

そうこうしているうちに4年になり、大南正瑛先生の研究室に所属し、研究の楽しみを教えていただき、初めて真面目に大学へ通った。研究をするなら大学院と思ったが、受けなかった。授業料を払ってまで勉強したくない・・・と思っていたところへ、大南先生から「研究室OBの教員がいる大阪産業大学工学部に技術院というポストがあるんだがどうや。給料をもらいながら研究できるぞ」という言葉で、そのまま就職した(そのまま42年間)。

当初は、先輩の研究を頑張って手伝っていたが、そのうちに、生意気にも自分の研究テーマが欲しくなり、同時期に就職した故中山英明先生に相談したところ、「やろう」ということで、いつのまにか、田中道七先生の研究会に参画させていただくことになった。また、同窓会メンバーにもなり、ちょっと頑張った。

結局、立命館で学んだことは、「なにくそ魂と脱エリート意識」であった。これがいまでも役立っている。

<交通事故の鑑定に興味を持ち始めた頃>

三十の頃、ひょんなことから交通事故の鑑定を遂行することになった。これは私の能力、というよりも、大学の中立性と所属が自動車工学研究室であったことが大きく影響していたわけである。面白いから、教育・研究はそっちのけであった。職場でも難しい表情をしている時は、鑑定を遂行中であった。とにかく、ほぼ毎日異なる鑑定を受諾していた。

職場の先輩教授は、裁判所法廷で弁護士等に辛辣で無礼な詰問を受けると、「何で、こんなこといわれなあかんねん。もう二度と鑑定なんてしない」という方が多かった。この点、私は、裁判所の証言台に座っても、何を言われようが、馬耳東風で済ますことができた。まさに立命館で体得したことが役に立った。

鑑定料に関して、大学ではアルバイト禁止ということもあり、また、事務も自分で処理してください、ということもあり、「御布施」ということで、かなり頂いた(当然、確定申告しています)。そのほとんどは、学生(建前)と北新地での飲み会に流用させていただいた。

四十後半の頃、縁あってか、交通事故鑑定の関係か、理由は定かではないが、他大学の教授から博士論文のお誘いがあった。研究に興味を失っていたことから、当初はお断りしたが、何となく受けて提出した。

<研究従事の最後と、その後>

五十になっても講師のままであったことから、周りの教授から、研究論文を提出するように指示があった。自動車関連の論文ということで、ドイツの学会へ提出したところ、行きたくなかったが、ドイツ出張となった。練習もしないで発表したため、かなり恥をかいた。それがかなりのプレッシャーであったか、本場のビールを朝昼晩と呑み続けたためか、帰国した際に、風邪症状で病院で受診の結果、「突然、初めての高血糖となり、Ⅱ型糖尿病を発症していた」。やはり、ここで、「自分の人生は一つ」と結論付けた時期でもあった。高校時代に作成した「My Will, My Way and My World」、要するに「嫌なことはしない!」を徹していこうと思った。なお、偶然ではあるが、長男も機友会会員であり、現在機械システム系の機械工学科に勤務している。

とにかく、何の不満もなく感謝だけであった職場を2017年3月に退職して、無職はかっこ悪いという気持ちから、税務署に「金山事故解析研究所」を届け出て、呑み代のために交通事故鑑定を細々とやっている毎日である。

1975年3月卒業 金山 幸雄

機友会ニュースデジタル版第45回 金山 幸雄 氏(昭和50年卒業) 「立命館と私」