<卒業からの歩みを思う> 

田辺 征一(昭和39年卒)

 

昭和38年度卒業研究説明会の最後に「京都大学で研究補佐役の学生を2名求めている」というので小路君と私が手を挙げて行くことになった。私は佐藤俊教授の研究室に入り、原子炉内のバーンアウト現象に関する研究に従事した。バーンアウトとは、ウラン燃料棒が沸騰蒸気膜に覆われると焼き切れることを言う。助手の先生と大学院生と私の3人のチームであったが、日頃の抽象的な授業がいっぺんに具象化した実態として目の前に現れ、学問することの喜びを見いだせた思いであった。

卒業後も研究への思いは捨てがたく、一般企業に就職するも1年後にお世話になった先生の紹介で京都大学の大東俊一教授の研究室助手として採用された。研究のテーマは内燃機関、主としてディーゼル機関燃焼室内の空気流動に関するもので実際にエンジンを動かし、流速を測定した。測定方法は、火花放電の性質を利用したもので、同僚で今は亡き浜本嘉輔先生(岡山大学名誉教授)と開発した。毎日、時間を忘れるほど遅くまで研究に没頭したのも、今となっては楽しく、懐かしい思い出である。その成果は1971年に英国機械学会主催の「くるまによる大気汚染シンポジウム」で発表することができた。日本からの海外渡航者が年間60万人の時代、1週間の旅行中日本人と思しき人に会ったのは1人だけであった。

11年目に助教授として鳥取大学へ移り、研究テーマを徐々に熱流体、熱移動へシフトしていった。卒論・修論の指導は一手に引き受けて多忙な毎日であったが、研究室の研究費は存分に使わせていただき仕事に励むことができた。1988年度文部科学省の在外研究員としてロンドン大学インペリアル校に10か月滞在した。この時お世話になったのは前述のシンポジウムで親しくなった当時リバプール大学の先生であった。時は、Japan as No.1 の時代、前回と違い街は日本人であふれていた。授業なし雑用なしでもっぱら共同研究と英国探訪に没頭した。我が人生、至福の1頁である。

鳥取大学での20年後、学科再編で私の所属する研究室が教授の退職をもってなくなることがわかり、急きょ、日本機械学会誌の求人欄を見て、鹿児島大学教育学部技術科に応募。1995年、教授として赴任した。かねがね冬の山陰から抜け出したいと願っていた身にとっては南国の太陽はまぶしく紫外線は強烈であった。技術科では機械工学の基礎全般を教えるのであるが、受講生の半分近くは女子。立命館中学校以来、ずっと男子校であったので、女学生に教えるのは誠に新鮮、おまけに男子より優秀。製図をさせてもケント紙を薄汚く汚すことなく、線の区別もしっかりしている。あるとき、島津斉彬公の建てた尚古集成館に展示されていた1863年オランダ製の型削り盤が国宝に指定されるというので、図面の制作を依頼された。半分さび付いて動かない状態であったが、製図のうまい女子学生2名を選び、何度も集成館に足を運び、図面を完成させた。この体験は私に「21世紀は女性の時代」を直観させた。

技術科の先生は“もの作り”が得意であることが大切と思い、研究テーマは教育学部に合った「エネルギー・環境」にした。特に、自然エネルギー利用に的を絞り、もの作りを主体に学生とともに歩んだ。時には、製作したスターリングエンジン車を大型バンに積んで関東まで競技大会に参戦した。そんなわけで、私の研究室はいつも学生たちに人気があった。

私がやってきた研究手法は今から思えば随分とハードな一昔前のもので、ソフトな当世風のものではなかったと思っている。しかし、いつの時代にあっても、大切なことは未知への好奇心と挑戦であり、その過程で得られる様々な出会いのありがたさであろう。

本因坊秀策の墓前にて 2017年秋

 

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機友会ニュースデジタル版第43回 田辺 征一 氏(昭和39年卒業)「卒業からの歩みを思う」