鉄の利用:人類の遥かなる営み(7) 【日本への鉄器・製鉄技術の伝来と伝播】

酒井達雄(本学名誉教授/総合科学技術研究機構上席研究員)

現在のトルコ付近で古代オリエント時代の民族「ヒッタイト人」が、紀元前1500年頃に製鉄技術を確立し,この製鉄技術を武器にして強大な一大帝国を築いたが、この技術を頑なに秘匿したことが仇となり、400~500年余りの短期間で「ヒッタイト帝国」が滅亡したことを起点に、製鉄技術がアジア大陸を東方に伝播した経路を「アイアンロード」として、前回の記事で簡潔に紹介しました。前回記事では古代オリエント地域から黒海やカスピ海の周辺→スキタイ圏→モンゴール圏→中国中央部を経て朝鮮半島まで伝播する経路を示しましたが、今回は朝鮮半島を経てその後、我国に伝来した製鉄技術の国内伝播経路に関する調査結果を紹介します。

前回のアイアンロードの話は、誠にタイムリーなNHKテレビ番組の放映内容を中心に、種々の文献資料を調べた結果を纏めたものですが、それから1ヶ月ほど経った今年の2月12日の夜、またもやNHKテレビで「歴史秘話ヒストリア:奇跡の金属「鉄」の物語」なるスペシャル番組が放映されました。主題は前回記事「アイアンロード」の続編に当たるもので、大陸から朝鮮半島を経て日本に伝来した製鉄技術が、その後、どのように日本国内に伝播したのか、この経緯を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古代史の専門家達が詳しく紹介する番組でした。当方としては、前回記事の執筆後、ちょうどこの課題に関する文献や資料を集めている最中でもあり、神様が与えてくれたような恰好の番組に感動を覚えました。2回も立て続けに偶然の幸運に恵まれたことは、しっかりとこの連載記事を書き進め、執筆の趣旨に沿って成功裏に完結するまで努力を続けるように、神様から激励を受けたような気がしました。この番組で放映された内容をベースにして、他の文献調査結果も含めて製鉄技術の日本への伝来と国内伝播の経緯を簡潔に纏めたのが、図7.1です。

朝鮮半島の歴史を調べてみると、時代とともに激しい変化が繰り返されてきましたが、製鉄技術が日本に伝来する頃の朝鮮半島の国家・体制については、図7.1の左上部に示すとおり、北部の広大な高句麗に南接して,西側の百済と東側の新羅が背中合わせに位置しており、さらに南端部に加那が位置していました。紀元200年代の中国の官僚・陳寿(233年~297年)により編纂された有名な中国の歴史書「三国志」によれば、朝鮮の「鉄」を倭国(日本)が受け取り、倭国の土器や米(モミ)を朝鮮が受け取ったことが記載されており、紀元3世紀にはすでに「鉄」が日本に輸入されていたことが客観的に裏付けられます。すなわち、日本で最初に製鉄が行われるまでは、大陸で製鉄された「鉄」を輸入し、これを加熱・鍛造するなどの鍛冶工程だけが国内で行われていたようです。

我国の古代史に関する資料を調べると、朝鮮半島と九州の間に位置する壱岐島には大陸の文明・文化を我国に移入する際の中継地であったことを示すいくつかの遺跡があり、多くの出土品が確認されています。代表的な遺跡が壱岐市勝本町のカラカミ遺跡であり、この遺跡は弥生中期から後期にかけて(紀元前数世紀~紀元3世紀頃)当地で高度のものづくりが行われていたことを示すものです。いくつかの石器とともに多くの鉄製品が出土しています。図7.2(a)は鉄製の鎌であり,同図(b)は鉄製の鍬先、同図(c)は鉄の斧、同図(d)は鉄で造った釣り針です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また,同図(e)は鯨の骨で造った漁具の銛(モリ)です。強度の高い鉄を幅広く有効利用して、人々の暮らしを豊かにしようとする人間の知恵と工夫が躍如としています。先人たちの努力の営みが、胸に迫る思いがしますね。2013年12月14日の日本経済新聞の記事によれば、このカラカミ遺跡から弥生時代後期(紀元1~3世紀頃)の鉄生産用の地上炉跡が見つかったことが報じられており、この炉の方式が韓国で発掘された精錬炉とよく似ているとのことで、この地上炉が朝鮮半島から移入されたものと解釈されています。なお、この記事の製錬炉が鉄鉱石を溶解させる製鉄炉(溶鉱炉)を指すものか、大陸から輸入された「鉄」を加熱して半溶融で色々な道具類に成形・製造していた加熱炉であるのか?この点については、今後さらに調査する必要があるとの解説が記載されています。

また、図7.3は今年の朝日新聞(2月13日版)に掲載された「5世紀前半の工房跡/栗東:鉄製品やガラス玉製造か」と題する記事に採用された滋賀県栗東市の辻遺跡の発掘現場の写真と当時の鉄製品の製造工房の想像図です。調査結果によれば、この工房は4世紀から5世紀前半の遺跡であり、30棟もの竪穴建造物があって、そのうちの10棟には壁面に近い位置に加熱炉の跡があり、建物の中央部には火を受けた石の台(鉄床石)があり、この上で加熱した鉄を叩く方式で鍛造が行われていたようです。加熱炉に空気を吹き込む刃口として使用した穴付き石や、鍛造時に飛び散った鉄剥片が多数出土しています。建物が30棟も立ち並ぶ大規模な鉄工房跡でありながら、この遺跡では鉄鉱石を溶解した製鉄炉は確認されておらず、鉄そのものは大陸から輸入して、その地金を加熱・鍛造して種々の鉄製品を製造していたようです。したがって、5世紀前半までは、国内でまだ製鉄技術は確立されておらず、鉄の地金を輸入してこれを加工する方式がしばらく続いていたと解釈されます。

すなわち、前述のカラカミ遺跡(壱岐)から北九州(唐津付近)を経由して、前掲の図7.1の青色破線で示すように瀬戸内海を船で輸送する方式で輸入地金が近畿地方まで搬送され、大規模な鍛冶工房で様々な鉄製品が造られたことが分かります。近江エリアについては淀川を遡上するルートで地金が搬送されたのか、朝鮮半島から日本海を経由して若狭に入り、その後、山を越えて近江に運んだのか、いずれのルートも十分に考えられます。この点については、次回連載記事で調査結果を示しながら、考察を加える予定です。また、瀬戸内海ルートでは、岡山県総社市の千引カナクロ谷製鉄遺跡が最も古く6世紀後半の遺跡であるが、播磨北西部を代表する西下野製鉄遺跡は8世紀になってから稼働したことが発掘物の放射性炭素年代分析で判明しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

また、図7.1の瀬戸内海ルートのゴールとして河内エリアが挙げられ、古墳時代に入ってから大和朝廷と結びつきながら大規模な鉄製品工房が形成され、製鉄炉なども設営されますが、当初は鍛造などの鉄製品加工の鍛冶が中心で、大量の製鉄が行われるようになったのは、7世紀~8世紀頃と予想されます。(5世紀・6世紀に河内地域で大規模な製鉄が行われていたことを示す資料は見当たらなかった。)

なお、前述のNHKテレビ特別番組「歴史秘話ヒストリア~奇跡の金属「鉄」の物語~」で紹介された内容として、現在の鳥取付近にもしばらく鉄の加工を行った後に製鉄も行ったことを示す遺跡や出土品があり、古代史や考古学の専門家の説明として、鉄以外に管玉や碧玉、さらに翡翠などの工芸品の工房や製品なども多数出土しており、碧玉原石は石川県小松市付近から、翡翠は新潟地域から運ばれたものとの解説がありました。したがって、紀元3世紀~6世紀頃の時代に、鳥取付近にかなり進んだものづくり産業が形成されていたと考えられます。まだ大和朝廷は十分に確立されていない時代であり、そのような時代に先に述べた琵琶湖周辺地域での大規模製鉄コンビナートや鳥取付近での総合的なものづくり産業の出現は、全国各地の豪族や有力者の注目の的になっていたことは容易に想像できます。筆者は、「ものづくり日本」の原点がここにあるような気がします。

今回の連載記事では、大陸から鉄や製鉄技術が日本に伝来し各地に伝播したプロセスを簡潔に纏めましたが、幅広く文献資料を調べるとともにNHKテレビの解説などを総合すると、5世紀前半までは大陸で造られた「鉄」地金を輸入して各種鉄製品を製造・利用していた時代が長く、5世紀後半から自力による製鉄が模索されるようになり、6世紀初頭にはいくつかの地域でかなりの規模の製鉄ができるようになったと考えるのが、最も自然な解釈でないかと思われます。本連載記事(第1回・第2回)で述べたとおり、琵琶湖周辺で5世紀中庸から製鉄が行われていたことを示す遺跡がいくつか発掘されており、5世紀の後半にはかなり大規模な製鉄が可能になっていたようです。このような近江エリアの製鉄集団を統括していたのが、第2回連載記事で述べたとおり、滋賀県高島で生まれ、越前(福井県)で育ち、後に第26代天皇に即位することになる「ヲホド王」こと「継体天皇」です。古代オリエントのヒッタイト帝国は鉄で誕生し、鉄で滅びましたが、それから2000年程経過した5世紀~6世紀の時代に、我国でも「鉄」の威力と国家権力の強い結びつきが重要なキーポイントとなって、時代が大きく動くことになります。この視点から、次回は「継体天皇」の生い立ちと経歴について、筆者なりの調査結果を纏めるとともに、我国における「鉄」と大和朝廷形成の関連について、考察を加える予定です。

シリーズ「鉄の利用:人類の遥かなる営み(7)」【日本への鉄器・製鉄技術の伝来と伝播】