鉄の利用:人類の遥かなる営み(2) 【古代国家を揺るがす恐るべき鉄の威力】

酒井達雄(本学名誉教授/総合科学技術研究機構上席研究員)

 

本学のびわこ・くさつキャンパス(BKC)が大規模な古代製鉄遺跡に位置することを、前回の記事で詳しく紹介しましたが、今回は当時の国家の姿と人々の生活、さらにこの時代における「鉄」の恐るべき威力について、種々の文献調査をもとに簡潔な纏めを試みることにします。

当地で古代製鉄が行われていた6世紀~7世紀の我が国の状況は、まだ大和朝廷が十分に確立されていない時代であり、元明天皇が都を平城京に遷都した707年より200年近く前の時期に当ります。平城京遷都から遡りますと、686年に持統天皇が奈良県の橿原に藤原京を造営しており、さらに遡ると661年に天智天皇が近江の国(滋賀県)に近江京(大津京)を造営し、一時期、この地で国政を司っていました。天智天皇の即位前の名前は中大兄皇子であり、極めて有能多才な人物で近江京の時代に我が国で初めて水を利用した「時計(漏刻)」を開発し、我が国の時刻制度を確立したことを示す資料が、近江神宮内にある時計博物館に残されています。文献によれば天智天皇は当時の中国(唐)や朝鮮との交流面でも接点が多く、国防の観点から奈良より大陸・朝鮮半島に近い近江の国に国府を置いたように解釈されています。

さて、上記のように大和朝廷が十分に確立していない時代の国府は、全国の人民の思いを把握したり支配したりすることは至難の業であり、朝廷の権威を確保するためいくつかの政策が度重ね執られてきました。その中の代表的な施策として「貨幣」の製造と配布が挙げられます。朝廷が貨幣を製造してこれを人民に配布し、この貨幣を用いてすべての品物を購入・販売することにすれば、貨幣を製造する朝廷は絶対的な権力と権威をもつことになります。朝廷は、すでに大陸との交流を通じて貨幣制度を知っており、これを我が国にも応用して朝廷の権威を確保しようと考えたのは想像に難くありません。古い文献によれば、朝廷は600年代に初めて貨幣を製造してその利用を図ったようですが、人民は貨幣の意味や価値が理解できないので、なかなか社会に普及しなかったようです。

図2.1(a)は、近江京の時代に我が国で初めて作られた貨幣であり、無文銀銭と呼ばれる銀貨です。銀の地金を叩いてコイン状にして、中央に穴を開けただけの貨幣であり、重さを調整するために小さな銀片を叩いて接合しています。文献によれば実際の重さは8g~10gの範囲でかなりのばらつきがあったようです。この無文銀銭は大阪・奈良・京都・滋賀・三重などの極めて限られた地域で少しだけ利用された形跡があり、関西地方を中心に15遺跡で出土例が確認されています。このうち滋賀県崇福寺跡(668年創建)から11枚がまとめて出土しており、現在、この貨幣が近江神宮に保存されています。無文銀銭の普及に失敗した朝廷は、その後も貨幣制度の確立に向けて色々な工夫を重ね、天武天皇の時代(683年)には図2.1(b)に示す富本銭が鋳造され、鋳造技術の発達とともに形状・重量などが安定してきます。この富本銭についても、少しは流通したものの日常生活で広く利用される状況には至らなかったようであり、宗教的な厭勝銭(おまじない)としての利用が一般的であったとの学説も広く支持されています。このような歴史的背景の中で、元明天皇の時代(708年)に造られた図2.1(c)の和同開珎(以前はわどうかいほうと読んだが、現在はわどうかいちんと読むのが一般的)が初めて全国レベルで流通するようになり、我が国の貨幣制度が確立したことになります。しかし、いつの時代も人間の性(サガ)と業(ゴウ)は根深く、都人の暮らしに必要な品々を貨幣で容易に売買できるようになりましたが、借金返済に苦労した人々や貧乏で暮らしの苦しい人々、さらには楽して富を得ようとする輩が少なからずいて、贋金製造が横行して社会の混乱など、いわば負の記録も文献に残されています。

600年代に朝廷が貨幣制度の導入を企てて以来、努力に努力を重ねて貨幣制度が確立されるまでに長年月を要したことは上述のとおりですが、この貨幣制度の確立より100年以上も前にびわこ周辺地域に巨大な古代製鉄コンビナートが展開されていたことを、前回の記事に紹介しました。まだ貨幣制度が確立していない時代に、4000名規模の従業員により、大量の鉄が製造されていた訳です。鉄は、銅に比較して強度が高く、生活に必要な種々の道具や農具、さらには戦さのための武器・武具を作る材料として、極めて利用価値が高いことになります。図2.2(a)は鉄を利用した種々の道具を示し、図2.2(b)は鉄を用いた武具や武器を示します。また、図2.2(c)は製鉄炉で鉄鉱石や砂鉄を加熱して溶かし、炉底で固まった粗鉄の塊りを示します。すなわち、このような不定形の鉄の塊りを再度過熱して叩いたり、曲げたり、伸ばしたりすることにより、図(a)や図(b)のような広範な道具や武器・武具などを製造することができます。

中大兄皇子が天智天皇に即位して近江京を拓くより100年以上も古い時代に、このような種々の鉄製品を自由に製造できる4000名規模の技術集団がびわこ周辺にいた訳です。当然、稲作や野菜の栽培などの技術はすでに大陸から朝鮮半島を経て我が国にも伝わっておりましたから、米や野菜、肉、魚などを煮炊きする道具として鍋や釜は生活をする上で重要な必需品でした。また、農地を耕すために木の枝や木片などを用いていた時代に比べ、図2.2(a)に示した鉄製の平鍬や備中鍬の出現は、まさに産業革命に匹敵するような生産性の向上を実現させた筈です。さらに、縄文時代や古墳時代から各地にいくつかの豪族や地域勢力があり、しばしば勢力争いや侵略・防御のための戦さが繰り返されていましたから、強度の高い鉄でできた武器や武具をもっている部族は勝敗の上で優位に立つことは当然です。したがって、当時の古代社会において個人のレベルでどの程度の鉄の塊をもっているか、また部族としてどの程度の分量の鉄を保有しているかが、富のバロメータになりました。自ずと鉄の保有量が富と権力・権威の象徴になり、日用品や食料などの入手でも粗鉄の塊りや断片が貨幣のような役割を果たすことになります。すなわち、当地の古代製鉄を取り仕切っている技術集団の長に尊崇の想いが集中し、広範囲にわたり大きな権力と権威を確保することになります。

このような社会の趨勢に着目するとき、もっとも困るのは誰でしょうか?それは、貨幣制度の導入により権威付けを目論みながら、遅々としてそれが進まない朝廷です。朝廷は、当時から大陸との交流をしており、製鉄に関する何がしかの情報なども入手していた筈ですが、知らない内にとんでもない巨大製鉄コンビナートが近江の地に出来上がっており、大いに戸惑った筈です。いまから、近江の製鉄集団に打ち勝てる別の製鉄集団を、朝廷主導で一から組織して育てることは極めて困難であり、朝廷としては途方に暮れるばかりです。近江の製鉄集団が我が国の津々浦々まで権威をもち、権力を持ち始めた訳であり、朝廷としてすでに太刀打ちできないレベルに到達してしまった訳です。朝廷は国府としての権威を維持することが困難になりました。朝廷として絶体絶命の危機に直面した時、まさに歴史は動くことになります。朝廷はこの危機に臨んで何をしたか?おそらく激論を重ねた上で、国府の権威を維持するためには近江の製鉄集団の長を新たな天皇として迎える策に打って出ました。これが、第26代天皇として507年に即位した継体天皇です。初代天皇は紀元前660年に即位された神武天皇であり、代々の天皇の名前を確認すると日本人としてそれらしく思われる名前がついていますが、この26代天皇だけ「継体」という異色の名前が付けられています。この点について筆者の私見ですが、朝廷が国府としての体制を継続させるためには、すなわち、国体を継続させるためには製鉄集団の長を天皇に迎える以外に方法はないとの判断を受けて、天皇の名前に「継体」という二字を冠したのではないかと考えています。本学文学部の古代史の専門家に問い合わせたところ、明確な回答は頂けないものの次のようなコメントを頂いた。

日本の古代史の解釈において多くの学派があり、天皇の系図についても解釈がすべて一致している訳ではない。しかし、第26代継体天皇以降の今上天皇に至る天皇の系譜については、学派によらず解釈が一致している。逆に、継体天皇より以前の天皇の系譜については、学説によりいくつかの異なる系譜が報告されており、今後の古墳発掘調査や古い文献・資料調査をもとに学説間の真偽の比較・検証などを通じて順次真実の解明を図る以外にないようである。

今回の記事執筆の趣旨は、本学のびわこ・くさつキャンパス(BKC)が貴重な古代製鉄遺跡の地にあり、6世紀~7世紀にかけて日本の歴史に直結する大きな出来事があったことを紹介することにありますが、この大きな社会変革を引き起こしたのは、今回の記事のタイトルのとおり「古代国家を揺るがす恐るべき鉄の威力」ということができます。また、貨幣制度の導入と贋金造り、危機に直面した朝廷の桁外れの政策、時刻を客観的に表示するための古代時計(漏刻)の開発など、これらの全てが現代社会でも姿を変え、形を変えて、正負両面で類似の営みが繰り返されている点に注目するとき、時代を超えた人間の愛おしい営みに胸が熱くなる次第です。

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