シリーズ「機械系教員が語る鉄道よもやま話②」

理工学部機械工学科 上野 明 教授の「機械系教員が語る鉄道よもやま話②」

近鉄編(その2 大阪線,名古屋線):

大阪電気軌道は,東を目指し,路線を拡張し続けます.まずは,伊勢神宮を目指して宇治山田駅までの路線,続いて,伊勢電気鉄道を合併して名古屋までの路線の拡張です.電車による高速鉄道を指向していた大阪電気鉄道は,伊勢までの途中にある山岳地帯を貫くルートを選択します.三重県伊賀市と津市の間にある布引山地を貫く区間は幾つかのトンネルを含む単線になっており,最長のトンネルが青山トンネル(全長3,432m)で1930年に完成しました.単線区間は列車運行の支障になるため,この区間も順次,複線化されますが,青山トンネルを含む区間は最後まで単線のまま残りました.1970年にATS(自動列車停止装置)の故障が原因で発生したトンネル内衝突事故を受け,この区間も全線複線の新路線に切り替えられ,現在では全長5,652mの新青山トンネルが使われています.

なお,この区間は33.3‰(1000mで33.3mの勾配)の区間が10km程度続く山岳路線であったため,この区間を高速走行するために高出力モータと発電ブレーキを備えた電車が新造されました.

近鉄名古屋線の成り立ちも複雑です.基盤となるのは,当時,大阪電気軌道および,その子会社である参宮急行電鉄と競合関係にあった伊勢鉄道(後の伊勢電気鉄道)の施設した桑名駅?江戸橋駅の路線です.その後,伊勢電気鉄道と参宮急行電鉄が共同出資して設立した関西急行電鉄が,経営破綻した伊勢電気鉄道の路線を引き継ぐとともに,名古屋へも進出します.しかし,名古屋?江戸橋間は「狭軌(レールとレールの間隔が1067mm)」,その他の路線は「標準軌(レール間隔が1435mm)」であったため,大阪・名古屋間を直通の列車が走ることができない状態でした.その後,第二次世界大戦中の1944年に関係各社が合併して近畿日本鉄道が誕生しますが,名古屋線の標準軌への改軌は近鉄の悲願でした.

(※JRを基準に考えると,1067mmが標準軌,1435mmは広軌になりますが,今回の話では近鉄を基準にしているため,1435mmを標準軌,1067mmを狭軌と記しています)

近鉄にとって名古屋線標準軌への改軌は悲願でした.そのため,1960年春の改軌完了へ向けて準備が進められていました.そのような中,1959年9月26日に伊勢湾台風が上陸します.東海地方は甚大な被害を被りますが,近鉄名古屋線も壊滅的な状態になります.当時の近鉄社長・佐伯 勇は,「台風被害からの復旧と,改軌工事を同時に行う」という大英断を下します.工事は順調に進み,同年11月27日に全ての区間での工事が完了し,12月12日から上本町駅?名古屋駅および名古屋駅?宇治山田駅間での直通運転が開始されます.当日,大阪?名古屋間を直通特急として駆け抜けたのは,ビスタカー(2代目の10100系)でした.
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