機友会ニュースデジタル版第30回 今村 哲夫 氏(昭和37年機械工学科卒業)       「人生は異なもの味なもの」~失敗体験と英会話がわが「ほろにが人生」を支えた~

「人生は異なもの味なもの」

~失敗体験と英会話がわが「ほろにが人生」を支えた~

昭和37年機械工学科卒業  今村 哲夫

 [所属変遷:安宅産業→アタカ工業→関西技術コンサルタント(現職)]

【はじめに】

齢、満78歳。振り返るに、衣笠キャンパスで吸収したいろいろな学習・実習・体験など、貴重な「失敗経験」と「英会話クラブ活動」が世間に出て大いに役に立った。社会人になっても失敗を繰り返しつつ、このダブルキャリアがわが人生を形成してきたといっても過言ではない。

【学生時代の失敗経験】

私は、機械工学科では到底優等生であったとは考えられない。失敗ばかりしていた。工場実習の鍛造ではテストピースを欠損させたり、自動車のエンジンの分解・組立でナットなどの部品が余ったり、製図では、スミ入れの完成寸前で汚したり、材料力学等ではチンプンカンプンついていけなかったりして、どうしようもない学生であったと先生方に迷惑をかけたと自戒している。昭和36(1961)年夏、田中道七先生の指導を受けた回転疲労に関する卒業研究時の失敗については、脳裏に焼き付いているが、ここでは割愛させていただく。

大学1、2回生の時、もやもやしているとき、救ってくれたのが駆け込みボックス、英会話クラブ「理工ESS」である。もともと、小学・中学・高校時代、理科(物理・化学・生物・地学)、特に物理・地学が好きであり、だから大学で機械工学科を選択したが、実は英語も捨てがたかった。

平成7(1995)年、93歳で天寿を全うされた深川俊男先生が「理工ESS」の顧問であった。今でも思い出す。何となく憂いをもった先生は、こよなくお酒を愛しておられ、我々学生を飲み屋によく飲みに連れて行ってくださった。

深川先生がよく言っておられたこと—京都帝大の学生時代、昭和のはじめ、アインシュタインが京都で講演会があった。文学部の学生であったが、興味本位で講演を聞いた。相対性理論の話であろうが、全然理解できなかった。ちょうど、同年ぐらいの湯川英樹博士が聴衆の中にいたであろう。そのむんむんした雰囲気が伝わったと。さらに先生いわく「大事なことは本物に接すること。本物のもつオーラを味わうこと。今感じなくても、これが生涯の宝になるぞ!」と、ほろ酔い加減でロレツが回らないかすれ声で話された。その時期、ノーベル賞を受賞した湯川英樹博士が衣笠キャンパスにたまたま来られ、講演会があった。学生が会場にあふれるばかり。私も後ろの方で講演を聞いた。もちろん講演内容はわからない。しかし、なんとなく本物に接することができた。

昭和37(1962)年4月、社会人になった。当時、売り手市場であり、就職は引く手あまたである。青田刈りが横行していた。3回生の昭和35(1960)年6月か7月、機械や鉄鋼などに強い関西系商社、安宅産業(現伊藤忠商事に吸収合併)と今や世界に展開するトヨタ自動車販売(現トヨタと合併)の2社を推薦してもらった。どちらもキーワード、機械と英語。面接は安宅産業の方が早かった。役員10人ぐらいで面接時、好きな言葉は何かと聞かれたとき、「Practice makes perfect(習うより慣れろ)」と答えた。ところが、オーナーである安宅会長であろう、「会社ではそんな生易しいことでは通用しない。まだ学生気分が抜けていないのか」と言われ、それについつい反論した。余計なことを言って「しまった」と思ったが、後の祭り。しかし、どういうわけか合格通知が来た。では、次にトヨタ自販に挑戦して、それから考えようとほくそ笑んでいたが、トヨタ自販への推薦はせずとの就職担当の先生のお告げ。悔いはないがこの時が人生のターニングポイントであった。

【社会人になって、学生時代の失敗経験・英会話を活かす】

社会人になってからも、失敗は山ほどある。これは、また別の機会に譲ることとする。

私は、「失敗経験」と「英会話」をダブルキャリアとここでは称する。まず、失敗経験をいかに克服したかについて経緯と結果だけ述べる。

仕事において、「失敗をしないことは、仕事をしていないことである」とよく言われる。しかし、その失敗をどう生かしたかが大事である。

旧い話であるので、ご存じでない方もおられるかもしれないが、明治37(1904)年に安宅弥吉によって安宅商会として創業され、昭和52(1977)年伊藤忠商事に吸収合併されて消滅した。安宅産業崩壊の経緯などは、松本清張の長編小説「空(くう)の城」が如実に伝えている。残念ながら入社して15年目で消滅したことになる。幸いにも、その消滅前に安宅産業の機械本部の一部が別会社、安宅建設工業をつくっていた。私は、その会社で助かった。社名をアタカ工業、アタカ大機と変えて、今は日立造船の水処理部門となって、水処理技術を継承している。

今、述べたいのは、安宅産業を選んだのが失敗かどうかは別として、このように会社がどうなるかわからない時勢で、私はどう「すり抜けてきたか」ということを示しておきたい。

これは、学生時代及び社会人になってからの失敗経験と学生時代の培った英会話が大いに役立った。まず「水処理技術」と「英会話」の資格を取って、活用することを心に命じた。具体的には、機械よりも土木(衛生工学)寄りの関連資格、「技術士(上下水道部門)」及び英会話では「通訳案内士(英語)」をなんとか取得できたことである。要するに第三者に認められるためには国家資格、公的資格を取得し、そして当然のことであるが「継続研さん(CPD: Continuing Professional Development)」をすることが技術者の責務である。

【終活にあたって謝意】

「終活」において、流れのままにたどり着いた今、身辺整理をしようと一念発起始めた。失敗経験の資料やそれにまつわり、寛容の心を持って指導していただいた先生方、タイミングよく助けていただいた先輩、そしてわが失敗を看過していただいた同僚・仲間たちに、ここで改めて感謝の意を表したい。このように辛かった出来事のなつかしい想い出が邪魔になって、整理が遅々と進んでいない今日この頃である。

ここで、一句。「終活の今の仕事は身辺整理」

写真 妻、子や孫たちに囲まれて(京都八瀬のホテルにて、結婚50周年記念)

<追記>

私が勤務していたアタカ工業元社長、故田中良直(よしお)氏(87)は、田中道七先生の実兄である。「現場をまず見よ」「情報は体で得よ」といつも「現場主義の徹底」を言っておられ、いろいろと指導していただいた。

(終わり)

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